■Ishisuke Ando History.
僕らは今「北方領土返還」と聞いて何を感じているだろうか
当時多くの悲痛や苦悩を聞き、涙し立ち上がった男がいる
あのGHQにも立ち向かった男
戦犯にされ職を失っても戦い続けた男
最後まで根室の復興を実現しようとした男
死ぬ間際まで領土問題に取り組んだ男
僕らはまだそれを知らない
その男の名は・・・
北方領土返還要求運動の父
北方領土返還要求運動の父と呼ばれる「安藤石典」
そう呼ばれる由縁や歴史は返還要求運動原点の地の「根室」でも殊の外掘り下げられてはいない。しかし、その由縁は彼の絶対的責任感が激動の戦後「根室」、そして「北方領土」の町民の人々を救うための気概ある行動から始まっているのは本当の事実である。
そして、その行動力や想い、情熱、その正義感は戦後71年を経過した現代の私たちにかなりの影響力を与える英雄といっても過言ではない。
安藤石典の足跡を追っていく
安藤石典の正義や姿勢や想い、そして人を守る助けるということはこの警察勤務時代に培われているのだろう。警察署長時代には町の警察トップとしての責任を負い数々の事件、事故に見舞われた。その迅速な行動や責任力、さらには人としての心を持って挑み続けたことが彼の基盤となっているのは確かである。
■1901年(明治34年)から 安藤石典(15歳〜)
高等小学校を卒業、研志塾中学校、巡査教習所に学び、一時根室警察署に勤務
巡査教習所別科で学び、根室管内標津及び羅臼で巡査として勤務
内務省警察練習所で半年学び、北海道庁警部補となって巡査教習所の教官として勤務
旭川、札幌、森警察署にて勤務
小樽水上、稚内、滝川の各警察署長として勤務
小樽水上警察署長時代の「正保丸」火薬爆発事故や、滝川警察署長時代の大夕張炭鉱事故の際の迅速で、なおかつ心ある行動は語り継がれている。
●小樽「正保丸」火薬爆発事故
日本火薬製造厚狭作業所から川口屋および三田宛として、火薬類約1,000箱を積んだ正保丸が大正13年12月26日小樽に入港。艀から荷揚げして貨車積み作業中のところ、約600箱が大爆発を起こした。一瞬にして、死者64名(内2名は監視中の警官)、行方不明30余名、重軽傷者200余名、家屋倉庫の倒壊や船舶の被害甚大という全く惨憺たる大事故となった。爆発したのは195箱であった。爆発原因は、関係者の死亡或いは行方不明などにより調査究明はできなかったが、真冬の厳寒の中で焚火で暖を取っていたのではないか、荷役中に落下したことが引き金になったのではないかと諸説紛々であったが、結局は全く手掛かりを得られなかった。
北海道庁高等警察課長として勤務
梅谷周造、八木安太郎らに請われて根室町(現:根室市)町長選に出馬し当選
町役場庁舎は、現在の根室市役所のある常盤町2丁目に新築移転した。
さらに、リンドバーグ夫妻を迎えるなど忙しい年であった。
再び町長選に出馬し当選し6年間在籍する。
臨港鉄道の建設等を行う。また、秋田木材株式会社の電気事業を根室町で買収して町営化する問題は、小池仁郎を仲介として交渉を進めたが、価格のことで町議会で論議があり、北海道長官佐上信一が調停に入った。
この頃、色丹島の缶詰工場や牧場の経営にも携わる。
※1939年8月14日(昭和14年)第二次世界大戦勃発
再び北海道議会議員に立候補(民政党)したが落選
第二次世界大戦から5年後。
この時、安藤石典、58歳 再度の根室町長就任の時の出来事である。
根室はアメリカ軍の艦載機による攻撃を両日ともに午前5時頃から攻撃を受けるが、特に15日の空襲は根室市街地の8割を焼失し、被災者約11,000人、死者数209人を出す大被害を受けた。
安藤石典町長は自宅が延焼するのも省みず、役場に立っ ※根室空襲を伝えるハワイの新聞記事 て消化と避難の陣頭指揮をとった。
1945年8月14日(昭和20年)
日本軍のポツダム宣言受諾決定
1945年8月15日(昭和20年)
昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送(玉音放送)
1945年8月17日(昭和20年)
千島列島最東端ソ連軍が「占守島」に奇襲攻撃開始
1945年8月28日(昭和20年)
ソ連軍が「北方領土」に上陸、占領開始
花咲群歯舞村はソ連軍の侵攻によって北方領土が占領される。当時、北方領土の島々には約17,000人の日本人が住んでいたが、ソ連の対日参戦に伴い、不安と恐怖のあまり次々に島を脱出し、安住の地を求めて根室へやってきた。村役場は根室半島側にあったために接収を免れるが、実際の行政権の範囲が同半島側のみになり人口は減少し、産業、経済へ大打撃を受ける。
このような終戦後の混乱の状態にあったにもかかわらず、根室町長の安藤石典は、戦災者の救助のみならず、ソ連によって不法に占拠された北方領土からの引揚者の受入対策を全面的に取り上げ、援護の手を差し延べるとともに、北方領土返還運動推進の陣頭指揮を執り、歯舞漁業組合の根室事務所に事務局を置き返還運動を開始する。
■この時のことを安藤石典さんの返還運動のお手伝いをしていた志発島出身の竹脇昭一郎はこう語る。
焼け野原の根室の町で、学校を卒業して、就職も決まっていない時期、親父の縁があって、漁協に行くようになったんですね。そのうち島の家族と連絡もつくようになるだろうから、それまで組合の事務でも手伝いなさいよと幹部の人に言われて、何となく手伝いかたがたみたいな気持ちで行ってたんです。
地理的にも歴史的にも北海道に附属する北方領土を米軍の保障占領下に置いて治安の回復を図ることを目的として、「北海道附属島嶼復帰懇請委員会(ほっかいどうふぞくとうしょふっきこんせいいいんかい)」結成の動きが根室町に起こり、安藤町長は、色丹島から脱出してきた小泉秀吉、川端元治根室漁業会会長、竹村孝太郎歯舞漁業会 会長らの協力を得て、連合国への陳情計画を進めた。
安藤石典が命を投げ出す覚悟で挑んだ「北方領土返還運動」その始まり。
根室町長安藤石典が上京して,連合国軍最高司令官マッカーサーに直訴状を提出した。
安藤石典は「北海道附属島嶼復帰懇請陳情書(ほっかいどうふぞくとうしょふっきこんせいちんじょうしょ)」という直訴状を作成しリュックサックに食料を詰めて上京した。直訴状は,「〈北方四島〉が日本固有の領土であると強調し,ソ連軍の武力占領を不当として、この地域をソ連軍の占領を解除し、本土と同じようにアメリカ軍の保障占領下に置き、島民が安心して生活できるよう懇願する」と、要請したものであった。
千島列島がソ連占領地になったのは、トルーマンとスターリンの合意事項なので、米軍占領地司令官に過ぎないマッカーサーに、陳情内容を実現する権限はまったくなかったのである。
さらには、マッカーサー元帥への陳情は、日本占領とほぼ同時の1945年8月から始まり、寄せられる陳情書は総数40万~50万と言われており、安藤石典の陳情書もたくさんある陳情の一つに過ず、安藤石典の陳情をマッカーサーが読んだかどうかは不明とされている。
しかし、これが北方領土返還要求に関する陳情の第1号となり、北方領土返還要求運動の原点はここにあり、これらの行動が北方領土返還要求運動の始まりとなったのだ。
■この時のことを安藤石典さんの返還運動のお手伝いをしていた竹脇昭一郎はこう語る。
GHQに占領政策に注文をつけたわけですから、今考えると、たいへんなことだったと思うんです。無条件降伏している立場でですよ。今考えてみても、これはただごとじゃないと。
一地方住民が命がけの仕事です。これは直訴だって。自分の命を投げてやるんだと。
この陳情が、日本における北方領土返還運動第一号とされる。陳情の中で、色丹・国後・択捉を南千島・千島諸島と表現していることが注目される。
根室町長・安藤石典、歯舞諸島脱出者や根室地区の漁業関係者らを中心に、北海道附属島嶼復帰懇請委員会(ほっかいどうふぞくとうしょふっきこんせいいいんかい)が設立され、安藤石典が初代会長に就任した。
この会の設立に伴い、力強い北方領土返還要求運動が行われていき、根室から北海道、そして日本全国に急速に広まっていくこととなる。
根室町長、安藤石典、町長名義ではなく北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で第2回目のマッカーサー宛陳情へ焼け野原の東京へ直談判。
このとき8月2日に安藤石典町長以下、五人(川端元治根室漁協会長、田村大三歯舞漁業会専務理事、小泉秀吉色丹島引揚避難者、加藤豊次郎国後島引揚避難者)が焼け野原の東京に向かう。
宿泊は東京の築地、高野屋という旅館で、食料は内地で補給証明書。食べる魚として鮭二箱。二等車(切符)を購入。旅費五人分、一人二千円。外食券十食分ほかを持っていった記録があるという。さらにヤミ米を売りに来たと誤解され、警察に逮捕されるというハプニングもあった。
8月12日マッカーサーには会えなかったが、午後4時半頃、マッカーサーの懐刀として知られたG.H.Q.政務局の局長であり、さらには弁護士・法学博士でもあり、日本国憲法の草案を指揮した人物でもあるコートニー・ホイットニー准将(少将と大佐の間の階級)に面会し陳情書を手渡す。
また、ホイラー大佐に提出したという記録もあるが、定かではない。
安藤石典、GHQ命令により、戦犯として公職追放。根室町長職を失う。
※公職追放とは:公職から特定の者を排除する処置。
昭和二一年(一九四六)一月、GHQの指示により、太平洋戦争に責任があるとした「戦犯(戦争犯罪人)」、軍国主義者、国家主義者などを国会議員、報道機関、団体役職員などの公職から追放し、政治的活動も禁じた。※昭和26年7月解除
安藤石典、北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で第3回目のマッカーサー宛陳情。
安藤石典のリーダーシップの下に北方領土返還運動に取り組む組織ができたことで、元島民や根室の人たちの返還運動も次第に盛り上がりをみせていた。
初めての住民大会となる「北海道附属島嶼復帰懇請根室国民大会」が開催され、この大会で採択された北方領土返還要求の宣言と決議は、連合軍最高司令官や政府に送付された。
根室と歯舞を結ぶ、日本国内において史上最東端を走った鉄道である「根室拓殖鉄道株式会社」の社長を1953年(昭和28年)まで5年間務める。
根室拓殖鉄道(ねむろたくしょくてつどう)は、北海道東部の根室市の根室駅(国鉄/JRの根室駅とは別地点)から根室半島南岸に沿って歯舞村(はぼまいむら 根室市に1959年合併)の歯舞駅までを結んでいた軽便鉄道路線、およびそれを経営していた鉄道会社。日本国内において史上最東端を走った鉄道である。
道路事情の劣悪な歯舞・根室間を連絡し、歯舞で収穫された昆布等の海産物を輸送する目的で建設されたが、北海道東端の根室半島に敷設された路線環境は酷寒・積雪のみならず、海からの塩害・脆弱な路盤などきわめて過酷で、終始経営は難航した。1948年(昭和23年)以降は実質歯舞村有志により経営された。
その有志を社長として5年間率いたのが安藤石典である。
社長就任の翌年1949年(昭和24年)も軌道整備の悪さや地盤の悪さ、そして積雪等により、列車の脱線が頻発していた。列車が途中で脱線すると、運転士は数時間がかりで駅まで徒歩連絡し、復旧作業を行ったという。ダイヤ通りに走らない遅延運転は日常茶飯事であった。このような理由から蒸気動力に見きりを付け、2輛の単端式ガソリンカーを増備し鉄道路線からバス路線へ変更していった。
安藤石典死去後の1959年(昭和34年)、歯舞村が根室市に合併することを受けて鉄道を廃止し、バス会社に転換したが、ほどなく根室交通に合併された。
安藤石典が根室 温根元の納札付缶詰の社長となる。
この会社は安藤石典死去後の1958年(昭和33年)に日本合同缶詰株式会社に合併された。
安藤石典は文教関係にも理解があり、長尾又六の考えた郷土館の話も約束し、寺島征史に「根室郷土史」を依頼している。
また、空襲で焼けた根室の復興を描いた安藤石典の構想は、寺島征史、大澤常治の夢
(花咲港を中心とする国際貿易都市、学園創設等)
とよく似ていて寺島征史は驚いている。寺島征史に依頼した「根室郷土史」は完成したが、郷土館も学園建設も、戦災、終戦引揚者の入植等で実現できなかった。
本名は寺島政司と書く。根室を代表する作家で、昭和4年から昭和26年(1951)頃までに出版された単行本は60冊以上はあるといわれている。特に科学史話、歴史小説、冒険探検小説が多く、その他に「講談倶楽部」「日本少年」「富士」「探偵クラブ」「文藝新風」といった雑誌の連載も数多く寄稿している。また、白木陸郎、歌古川文鳥、白木原史樓、北聯城、寺島征史、寺島荘二、寺島朽秋など複数のペンネームを使っていたため、未だ確認できない作品や活動の詳細が明らかにされていないことも事実だ。
昭和26年6月30日(1951)には、昭和19年(1944)に安藤石典から引き受けた大作「根室郷土史」が岩崎書店より発行されている。
1951年9月8日に署名したサンフランシスコ平和条約第二章第二条において、日本政府は千島列島におけるすべての権利、権原及び請求権を放棄した。ここでいう千島列島には、南千島である択捉島と国後島も含まれ、北海道の付属島である歯舞群島と色丹島は含まれないとするのが当時の日本政府の公式見解であった。
当時の日本政府はこうした考えのもと、二島返還を条件にソ連と平和条約締結交渉を開始した。これに対し、ソ連側は二島「譲渡」として受け入れ、一時は平和条約締結がまとまりかけた。しかし、平和交渉の第一次ロンドン交渉の途中で日本側は突如それまでの主張を転換、択捉島と国後島は我が国固有の領土でありサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島には含まれないという根拠付けのもと、択捉島と国後 島を要求し平和条約交渉は難航した。
当時、日ソ平和条約締結に向けた正常化交渉がすすめられていたが、ソ連の提案として色丹島と歯舞群島2島返還についてその報道が各所に出回ってくる。
もちろんその情報は安藤石典の耳にも入ることとなる。
昭和三十年、返還運動の組織の長として安藤石典の自らの起案で、日ソ共同宣言が出る時点に緊急役員会開き、「二島返還なんかで妥協しちゃだめだから、すぐに電報を打ちなさい」と、当時の鳩山総理、重光(しげみつ)外相、根本官房長、武内欧米局長に電報を打診。安藤さん自ら起案して。一切妥協を廃して、四島一括での返還を願う電報を最後に心臓病で死去。
これが北方領土返還に半生をかけた安藤石典最後の陳情、仕事となったのである。
鳥取県西倉吉町出身で墓所がある。
妻・安藤やす(安)の父・三浦保太郎は、根室実修学校の嘱託、花咲小学校の教員であったが日清戦争で召集され戦死した。
その頃、やすはまだ幼児で母が働きに出る間、長尾又六家で面倒をみて兄妹のように育ったという。その後、やすは根室実践女学校から東京和洋女子専門学校へ入り高等師範科を卒業し、根室高等女学校の教師をした人であった。
安藤石典の末弟・千代蔵が安藤家を継ぎ、養子三浦元治が妻方の三浦家を継ぎ三浦学園を経営している。
本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(日ソ共同宣言)が発行される。
日本国とソビエト連邦がモスクワで署名し、同年12月12日に発効した外交文書(条約)である。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。
1957年8月1日(昭和32年) 根室郡内の和田村と合併、市制を施行し、根室市が誕生する。
2014年06月28日
返還運動資料を根室市に寄贈
〝北方領土返還運動の父〟と言われる安藤石典根室町長。その町長が立ち上げた返還運動団体を事務方として支え、2013年10月に84歳で逝去した元島民の竹脇昭一郎さん所有の資料が27日、遺族から根室市に寄贈された。議事録や国の機関とのやり取りを記した日誌など、現在の返還運動の基礎となった草創期の貴重な資料で、長谷川俊輔市長は「第1級の資料」として有効活用を約束した。
僕らは今「北方領土返還」と聞いて何を感じただろうか
当時多くの悲痛や苦悩を聞き、涙し立ち上がった男がいた
あのGHQにも立ち向かった男
戦犯にされ職を失っても戦い続けた男
最後まで根室の復興を実現しようとした男
死ぬ間際まで領土問題に取り組んだ男
僕らはその男を知ることができた
だから
僕らが次に何をするのか
君らの明日に夢と希望を